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父との約束と新進工房の原点を象徴する写真

新進工房の仙入寛章です。

今日は少し、個人的な話をさせてください。

本日、6月17日は、父の26回目の命日です。

父の日も近いので、今回は26年前の今日のこと、そして僕たち兄弟と父の話を書かせていただこうと思います。

父との約束の話です。

少し長くなるかもしれませんが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

父が亡くなった日

父が亡くなったのは、2000年6月17日です。

当時、兄である僕は16歳。弟は13歳でした。

父がどんな人だったのかと言うと、一言で言えば「仕事しかしない人」でした。

ここは、今の僕にもかなり引き継がれていると思います。

父は、家のことはほとんどしませんでした。

家事や育児だけでなく、家族旅行に行った記憶もほとんどありません。

家族4人で撮影した写真すら、ほとんど残っていません。

365日、仕事をしている人でした。

本当に仕事一筋。

頑固で、短気で、怖いところもある父でした。

でも、今振り返ると、その背中には、家族のために働くという大きな覚悟があったのだと思います。

父がもう家に帰ってこられないと知った日

父が亡くなるかもしれないと聞かされたのは、亡くなる1年半ほど前のことです。

僕は中学2年生、弟は小学5年生でした。

父はずっと咳をしていました。

あまりにも咳がひどかったので、母が無理やり父を病院へ連れて行きました。

僕と弟は、自宅で待っていました。

でも、病院から帰ってきたのは母ひとりでした。

母は、僕たち兄弟の顔を見るなり、糸の切れた操り人形のように、その場に泣き崩れました。

僕はその時、初めて母の涙を見ました。

そして、母は泣きながらこう言いました。

「お父さん、もうこの家に帰ってこれない。」

その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になりました。

父がもう帰ってこられないという事実。

そして、初めて見た母の涙。

その二つが一気に押し寄せてきて、当時の僕には、何をどう考えればいいのか分かりませんでした。

どうして父は家に帰ってこられないのか。

ただその一点だけが、どうしても受け入れられませんでした。

人生で初めての絶望

その日の夜、祖父と祖母、そして叔父が自宅へ来てくれました。

みんな泣きながら、父の状態を詳しく説明してくれました。

祖父は、

「自分が身代わりになってあげたい。」

「幼い兄弟にはつらすぎる。」

そう言って泣いていました。

叔父は、

「これだけはどうしようもない。」

そう言っていました。

僕にとって、それは人生で初めて味わう絶望でした。

あんなに強い父が死ぬなんて、ありえない。

家族のために働くことを生きがいにしていた父に、どうしてこんな不幸が訪れるのか。

父が僕に言い続けていたこと

父は昔から、僕たちにあまり構ってくれる人ではありませんでした。

でも、大きな愛情は感じていました。

父と一緒にいる時は、とにかく褒めてくれました。

家族のために働き続ける姿そのものが、父なりの愛情だったのだと思います。

そんな父が、僕にずっと言っていたことがあります。

「自分と同じ高校へ行ってほしい。」

父は高校を卒業した後、現在の新進工房の建物の横にあったテナントで商売を始めました。

そこから商売が少しずつ大きくなり、今の新進工房の建物を父が建てました。

父の話は、大体いつも高校時代の話でした。

父にとって、その高校で過ごした時間は、人生の中でとても大きなものだったのだと思います。

だから僕にも、その高校へ行ってほしいと願っていました。

ただ、あいにく僕は勉強ができる方ではありませんでした。

父に「お前はもうあきらめた」と言われる始末でした。

それでも、父が病気だと知ったその日、僕は決めました。

父と同じ高校へ行こう。

それが、その時の自分にできる唯一のことだと思いました。

若い頃の父とバイクの思い出の写真

せめて勉強している姿だけでも見せたかった

その高校は、地元では進学校と言われる高校でした。

当時の僕の学力では、逆立ちしても受からないような場所です。

担任の先生にも、何度も「無理だ」と言われました。

でも、僕はどうしてもそこに行きたかった。

合格できるかどうかよりも、せめて父に勉強している姿だけでも見せたかったのです。

父が願っていた場所を、自分が本気で目指している姿を見せたかった。

そこから、必死に勉強しました。

今思えば、あの時の僕は、父を失う怖さを、勉強することで必死にごまかしていたのかもしれません。

努力の甲斐あって、僕は無事にその高校に合格することができました。

合格発表の掲示板で自分の番号を見つけて、すぐに父へ連絡しました。

その頃の父は、もう体が思うように動かず、歩くのも大変な状態でした。

それでも母と二人で、その掲示板を見に行ってくれたそうです。

あとで母から聞きました。

父は、泣いて喜んでくれていたそうです。

僕にとって、今でも忘れられない話です。

合格発表から3か月後、父は亡くなりました。

父が話していた夢

亡くなる前、父はこんなことを言っていました。

「もしこの病気が治ったら、俺は店はお前たちに任せる。」

「自分は店の前でロッキングチェアに座って、オーバーオールを着て、髭を生やして、葉巻でも吸いながら、お店に来るお客様を見ていたい。」

父らしい夢だと思いました。

365日働いてきた父が、最後に思い描いた風景。

それは、商売を大きくすることでも、何か特別な成功をすることでもありませんでした。

店の前でゆっくり座り、お客様を眺めていたい。

それが父の夢でした。

その話を聞いた時、僕は決めました。

何があっても、この約束を守ろう。

父が守ってきた店を、僕たち兄弟で守ろう。

「お店は僕たちが守るから安心して」

亡くなる前日ぐらいには、父はもう意識がほとんどない状態でした。

僕は父の手を握って、こう伝えました。

「お店は僕たちが守るから安心して。」

その言葉が聞こえていたのかどうかは分かりません。

でも、その言葉を伝えた後、父の目から涙がこぼれました。

あの涙を、僕は一生忘れません。

あの時にした約束を、僕は何が何でも守ると決めています。

少し話はそれますが、新進工房のロゴマークがロッキングチェアなのは、この時の話があるからです。

今、YouTubeの撮影スタジオにロッキングチェアを置いているのも、父が最後に話していたこの夢があるからです。

父の夢だった景色を、僕たちなりに今もずっと大切にしています。

新進工房のロッキングチェアと撮影スタジオ

父が亡くなって驚いたこと

父が亡くなって、一番驚いたことがあります。

それは、誰も父のことを悪く言う人がいなかったことです。

長男である僕には、本当に当たりがきつい父でした。

ルールも厳しく、怖いと感じることもたくさんありました。

でも、周りの人たちは父のことを本当に高く評価していました。

仕事に対する姿勢。

人との向き合い方。

商売に対する責任感。

僕が知らなかった父の姿を、父が亡くなってからたくさん知りました。

あの時は分からなかったことが、今になって少しずつ分かるようになりました。

父は不器用だったけれど、まっすぐな人だったのだと思います。

あれから26年が経ちました

あれから26年が経ちました。

父が亡くなる直前にした約束を、今この瞬間は、なんとか守ることができています。

でも、これから先は、僕たち兄弟だけで守っていくものではないと思っています。

今は、新進工房のスタッフがいます。

一緒に作品を作ってくれる仲間がいます。

応援してくださるお客様がいます。

YouTubeを見てくださる皆さまがいます。

父が作った場所を、父が残した想いを、これからは新進工房のスタッフ一同で守っていきたいと思っています。

そして、ただ守るだけではなく、新しく進んでいきたい。

父が見ていたら、きっと色々文句を言うと思います。

でも最後には、少しだけ笑ってくれるような気もしています。

最後に、少しだけ宣伝させてください

長い話になりましたが、最後に少しだけ宣伝させてください。

2026年6月22日(月)朝9時まで、父の日キャンペーンを開催しております。

普段なかなか伝えられないお父さんへの感謝の気持ち。

「ありがとう」という言葉。

その想いを、新進工房の作品を通して届けていただけたら嬉しいです。

父の日は、贈る側にとっても、贈られる側にとっても、少し照れくさい日かもしれません。

でも、照れくさいからこそ、形にして渡せるものがあると、気持ちが伝わりやすいのかもしれません。

僕自身、父に伝えられなかった言葉がたくさんあります。

だからこそ、今伝えられる人には、ぜひ伝えてほしいと思っています。

父の日の贈り物に、新進工房の作品を選んでいただけたら幸いです。

この建物から始まったすべての出会いに感謝。

新進工房の建物と父との約束を受け継ぐ場所

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